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1875年(明治8年)に開校した「第五大学区第四中学区立石小学校」を前身とする。2010年(平成22年)に創立135年を迎えた。校章1921年(大正10年)に制定。別名「雪の島」と呼ばれる「壱岐島」の名にちなみ、3番のガチョウの羽筆を雪の結晶の形に配置し、波を付け加えたものとなっている。校歌1921年(大正10年)に制定。作詞は福田茂樹、作曲は山口常光による。歌詞は4番まである。歌詞に校名は登場しない。校区住所表記で、勝本町の後に「立石西触」、「立石南触」、「立石仲触」、「立石東触」、「百合畑触」、「布気触」、「上場触」、「湯本浦」、「本宮東触」、「本宮仲触」、「本宮西触」、「本宮南触」が続く地区。中学校区は壱岐市立勝本中学校。
沿革
旧・立石小学校から現・鯨伏小学校へ
1872年(明治5年)・1873年(明治6年)頃 - 立石南触観世音寺の観音堂で村内の児童十数名に読書、珠算を教育。
1875年(明治8年)5月 - 「第五大学区第四中学区立石小学校」が創立される。
1877年(明治10年)8月 - 立石村南触鬼川の内八ツ口の山林を切り開き、校地とする。校舎は香椎村勝本浦の古屋を購入し、建築。
1882年(明治15年)4月 - 「立石学区立石小学校」に改称。
1883年(明治16年)3月 - 「立石学区公立中等立石小学校」に改称。
1884年(明治17年)9月 - 本宮小学校を本宮分舎とし、「立石・本宮村立中等立石小学校」と改称。
1885年(明治18年)6月 - 「可須学区中等立石小学校」と改称。
1886年(明治19年)3月
布気触字榎川の下條久三郎の旧宅地を購入し、立石八ツ口から移転。
本宮分舎を統合し、二ヶ村(立石村・本宮村)一校体制となり、「壱岐郡尋常立石小学校」と改称。
1887年(明治20年)8月 - 「立石学区簡易立石小学校」と改称。
1882年(明治25年)12月 - 「鯨伏尋常小学校」と改称。
1908年(明治41年)4月 - 高等科を併置し、「鯨伏尋常高等小学校」と改称。
1917年(大正6年)4月1日 - 鯨伏補習学校を併設。
1921年(大正10年)- 校章・校歌を制定。鯨伏補習学校を鯨伏実業補習学校に改称。
1926年(大正15年)6月 - 鯨伏実業補習学校が青年訓練認定鯨伏実業補習学校に改称し、男子研究科を設置。
1929年(昭和4年)4月 - 実業補習学校に女子専修科を設置。
1935年(昭和10年)4月 - 青年学校令により、青年訓練認定鯨伏実業補習学校を「鯨伏青年学校」に改称。
1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により、「鯨伏国民学校」に改称。
1944年(昭和19年)6月 - 鯨伏青年学校が鯨伏高等実業青年学校に改称し、青年道場に移転。併設を解消。
1947年(昭和22年)4月1日
学制改革(六・三制)の実施により、「鯨伏村立鯨伏小学校」に改称。
鯨伏村立鯨伏中学校の1・2年生の授業が小学校校舎を利用して行われる。
1949年(昭和24年)2月19日 - 本宮南触175番地に鯨伏中学校新校舎が完成し、中学1・2年との併設を解消。
1955年(昭和30年)2月11日 - 鯨伏村が勝本町に編入され、「勝本町立鯨伏小学校」に改称。
1956年(昭和31年)- 小学校校舎の一部を利用し、勝本町立鯨伏幼稚園が開園。
1958年(昭和33年)- 鯨伏幼稚園の園舎が本宮南触字松崎242番地に完成。
1965年(昭和40年)- 霞翠小学校校地に勝本町立学校給食共同調理場が完成し、完全給食を開始。
1971年(昭和46年)- 鯨伏幼稚園が2年保育を開始。
1978年(昭和53年)- 第1回勝本町内小学校(勝本・霞翠・鯨伏)体育大会を実施。
1979年(昭和54年)9月1日 - 現在地に新校舎が完成し、移転。授業を開始。
1981年(昭和56年)3月6日 - 体育館が完成。
2004年(平成16年)3月1日 - 町村合併により、「壱岐市立鯨伏小学校」(現校名)に改称。
2011年(平成23年)
4月1日 - 隣接の鯨伏中学校が統合のため閉校。これにより中学校区が壱岐市立勝本中学校となる。
7月 - 勝本地区学校給食共同調理場が閉鎖。
9月1日 - 壱岐市学校給食センターが勝本町亀石地区に完成したことにより、同センターからの配送方式に変更。
旧・本宮小学校
1873年(明治6年)- 本宮村東触字里の報恩寺を借り、新城村の須田大平・本宮村の岩永恒太郎等が村学を開き、村内の子弟を集め、読書・習字・珠算等を教授。
1874年(明治7年)- 第五大学区第四中学区可須小学校(現・壱岐市立霞翠小学校)が開校し、村学の多くの児童が転学したため、村学が閉鎖。
1876年(明治9年)9月 - 「第五大学区第四中学区本宮小学校」が開校。
1880年(明治13年)7月 - 校舎を報恩寺から本宮仲触の松本仁作宅に移転。「本宮部本宮小学校」に改称。
1881年(明治14年)11月 - 「本宮部公立本宮小学校」と改称。
1883年(明治16年)2月 - 「本宮学区公立中下等本宮小学校」と改称。
1884年(明治17年)
2月 - 「立石学区公立中等本宮小学校」を改称。
9月 - 校舎を小金丸蜜之助宅に移転。中等立石小学校の分舎となる。
1886年(明治19年)3月 - 立石小学校に統合され、廃止。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
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・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
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