所在地や連絡先、偏差値等詳しい最新情報を掲載。みなさまから提供いただいた情報も掲載いたします。
卒業年毎の専用ページです。卒業生同志の交流や、同窓会情報、卒業アルバム、クラス名簿など多数のコンテンツがあります。
同窓会の開催情報です。同窓会情報だけでなく、予定が無くてもやりたいという方でも同窓会ホームページを作成できます。
緑丘小学校出身の芸能人やスポーツ選手といった有名人、著名人を紹介します。
緑丘小学校の評価をいくつかのカテゴリにわけて評価をしています。また皆様からの評判も掲載します。
体育館の舞台裏、教室の落書き、理科室の匂いや実験器具等、学校の様々な場所での思い出を共有しましょう。
緑丘小学校出身の卒業生が現在どこで活躍されているか、みなさんのご意見をもとに掲載しています。
在校当時の懐かしい写真や同窓会写真、今の学校の風景など無料で共有することが出来ます。
偏差値情報を掲載しております。 最新のデータはもちろん過去の偏差値情報も掲載しております。偏差値の推移もご覧いただけます。
学校関するみなさまの様々な意見を掲載しております。まだアンケートに参加いただいていない方は是非ご協力ください。
midorigaokasyougakkou
岡山県下では県庁所在地で東に隣接する岡山市に次いで第2位(中国地方では第3位)となる約47万人の人口を擁し、岡山市や周辺自治体と共に岡山都市圏を形成している。また、備中県民局の本庁が置かれ、県西部(高梁川流域圏)の中枢都市としての機能も有する。市中心部の倉敷川沿いの一帯は江戸時代に幕府直轄地(天領)が置かれたのを機に繁栄し、和洋織りなす白壁の町並みが今も美観地区として保存され、県内有数の観光の街としての顔を持つ。一方で臨海部には石油コンビナートなど重化学工業地帯が形成されており、市内の製造品出荷額(2016年)は3兆円超に上るなど、西日本を代表する工業都市の一つでもある。倉敷市の発足は1928年(昭和3年)の昭和初期である。その後1967年に旧倉敷・児島・玉島の3市が新設合併したことにより現在の倉敷市(2代目)が成立した。さらに旧3市や現在の市が周辺町村の編入合併を繰り返し市域を拡げてきたため、地理や歴史、文化の異なる多様な地域で構成され、核となる市街地も各地に分布する。主要な地域としては行政と観光の倉敷、重化学工業地帯のお膝元・水島、学生服・ジーンズのメッカ・児島、貿易港と新幹線駅を有する玉島などがある。3市合併前の初代・倉敷市の詳細は歴史の節、もしくは倉敷地域を参照
沿革
各地域の沿革の詳細は、倉敷・水島・玉島・児島・庄村・茶屋町・船穂町・真備町の各ページを参考のこと
古代〜中世
熊野神社
市内の最も古いとされる遺跡は紀元前2万年頃先土器時代の鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海は陸地であったと推測されている。1万年前に氷期が終わり海水面が上昇、6000年前までに海になった。なお、中津貝塚、福田貝塚、船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡が多く存在している。
もっとも早く村として形成されたとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年頃の上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀頃に土器を生産した二子窯跡に加え650年頃に作られた日畑廃寺跡など多くの遺跡が集中している。
現在の倉敷市一帯は3世紀から律令国になるまでは吉備国、飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。備中国の中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市に置かれていたと推測され、高梁川を隔てた西に位置する真備地区一帯を拠点としていた吉備国の有力氏族・下道氏(しもつみち)出身の吉備真備が活躍したのは奈良時代8世紀後半頃である。
倉敷地域の倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖と児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代始め頃には既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった。10世紀中頃、藤原純友の乱の後、小野好古が鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏が支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。水夫達は周辺で行われた数々の戦いにかり出され、水軍として活躍したといわれている。ちなみに中世の高梁川河口は現在の水江・船穂町柳井原・船穂町水江付近である。
児島地域は吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島の西側にあたり、『古事記』や『万葉集』等に書かれた古くから海上交通の要衝であったためヤマト王権の時代に屯倉が置かれた。奈良時代に建立された熊野十二社権現の寺社地や通生荘(かよおのしょう)の荘園等が存在し、本州と四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱・源平合戦藤戸の戦い・南北朝の戦い等に関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』に登場する児島高徳は当地の出身であるとする説がある。
玉島地域の平野は江戸時代初め頃まで七島・柏島・乙島(おとしま)等の島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった。八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然の良港で中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代~室町時代に陶(すえ)から亀山周辺で生産された須恵器(亀山焼)という甕(かめ)等の土器を出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は万葉集で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦・水島の戦いで舞台になった乙島と柏島から北に位置する七島に囲まれた一帯と推測される。
和名類聚抄(平安時代の辞書)によると7世紀の律令制によって定められた現在の倉敷市内にあたる行政区域は大まかに次の通りとされる。
備中国
窪屋郡 - 阿智郷(阿知、万寿、帯江)、大市郷(大内、川入、酒津、水江)、美簀郷(祐安、西岡、浅原)
都宇郡 - 深井郷(二子、松島、上東、山地)、駅家郷(矢部、日畑)
下道郡 - 河辺郷(川辺)、曾能郷(岡田、市場)、八田郷(箭田)、邇磨郷(二万)、呉妹郷(妹)、穂北郷(陶)、秦原郷(辻田)
浅口郡 - 間人郷(柏島、乙島、黒崎)、船穂郷(船穂)、阿智郷(西阿知)
備前国
児島郡 - 児島郷(林、木見、串田、曾原、福江)、都羅郷(連島、福田、下津井、ほか)※連島は備中国浅口郡へ移管
※括弧内は近辺と推定される現在の地名
近世
旧・野崎邸
倉敷一帯の島々は豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家が始めた干拓が江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成された。なかでも小豆島に匹敵する大きさの吉備児島は児島半島となった。江戸時代に入り幕藩体制下ではかなり複雑な統治がされており、場所によって様々な領地が入り乱れている。天領である倉敷代官所領の他、備中松山藩・岡山藩(鴨方藩・生坂藩等の支藩を含む)・浅尾藩・丹波亀山藩・岡田藩他の大名領に加え、知行処(旗本領)や寺社領などがあった。
天領になった倉敷旧市街は高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になり、1614年備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所(支配所)がおかれた。その後、倉敷が商人の町として発展したのは港の機能より年貢米の集積地としてであった。倉敷代官所は商人たちの自治を認め優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。ちなみに、倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵である。
児島地区は岡山藩の支藩である天城池田家支配の下、古くからの産業である塩田に加え、周辺の新田で栽培された綿花を使った機織りが盛んになり、藩はそれらに専売制を取り入れ財政の柱にすえる。やがて機織りによって作られた製品が地場産業となり、真田紐や足袋等といった名産品を生み出し“繊維の町・児島”の素地を形成していく。沿岸の港のうち下津井は北前船の寄港地、田の口と下村(現下の町)は瑜伽大権現と四国金刀比羅宮を結ぶ港として繁栄した。
玉島地区の甕ノ泊は備中松山藩藩主の水谷勝隆・勝宗親子と岡山藩による干拓で瀬戸内海側に面していた乙島や柏島と陸続きになった。その後、水谷氏により高瀬通しと呼ばれる水路が作られ、下流の玉島新田と阿賀崎新田は高梁川上流から高瀬舟によって運ばれてくる物資を北前船に載せる積出港として発展した。やがて“玉島湊”として全国に知られるようになるが、1693年水谷氏断絶後は幕府に領地の多くが接収され、備中松山藩領として残った羽黒神社周辺を除き倉敷代官所、岡山藩、丹波亀山藩等によって細分統治された。
年表
(645年 - 大化の改新)
689年 - 持統天皇3年に吉備国が備前国、備中国、備後国に分割される。
701年 - 郷内に熊野神社、通生に本荘八幡宮が創建される。
717年 - 吉備真備が阿倍仲麻呂・玄昉らと共に遣唐使として唐国に渡る。
733年 - 玄昉の弟子にあたる行基によって由加山・瑜伽大権現、同じ天平年間に円通寺、藤戸寺等が創建される。
(794年 - 平安遷都)
859年 - 連島に宝嶋寺が理源大師(聖宝)により創建される。
939年 - 承平天慶の乱で藤原純友が下津井沖の釜島に砦を築く。
1183年 - 水島灘の乙島・柏島で源平合戦(治承・寿永の乱)・水島の戦いがおきる。
1185年 - 藤戸で源平合戦(治承・寿永の乱)・藤戸の戦いがおきる。
1221年 - 承久の乱が起こり後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王が児島に流される。
1336年 - 南北朝の戦いで足利尊氏が下津井から上陸し福山合戦がおきる。
1550年 - 玉島湊と松山(高梁市)間で高瀬舟による物資の輸送がはじまる。
1584年 - 宇喜多秀家が早島から高梁川河口まで汐止め堤防を築く。
(1603年 - 江戸幕府開府)
1606年 - 備前藩下津井城完成(1639年廃城、天城陣屋に移る)。
1615年 - 伊東長実が岡田藩(真備町岡田)を立藩。
1616年 - 倉敷・玉島近辺の水島灘で新田開発が始まる。
1642年 - 倉敷村が幕府の直轄地になる。玉島地区一帯が備中松山藩の支配になる。
1704年 - 帯江戸川氏の戸川安広が帯江沖新田(茶屋町)の開発に着手する。
1779年 - 良寛和尚が円通寺で修行を始める。
1829年 - 野崎武左衛門が児島(味野・赤崎)で塩田事業を始める。
1866年 - 倉敷浅尾騒動。
(1868年 - 明治維新)
旧・倉敷町役場
空襲後の水島
※市町村合併関連は下記の市域の変遷を参照
1871年(明治4年) - 廃藩置県により、窪屋郡倉敷村に倉敷県役所が置かれる。
1872年(明治5年) - 倉敷県・福山県等が合併し深津県になり、翌年小田県に改称。
1875年(明治8年) - 小田県が岡山県と合併。
1881年(明治14年) - 乙島(玉島乙島)に市内で初の玉島紡績所が操業。
1882年(明治15年) - 日本最初とされる海水浴場の一つが沙美に開場。
1889年(明治22年) - 町村制施行に伴い、窪屋郡倉敷村が発足。
1891年(明治24年) - 町制を施行して倉敷町となる。窪屋郡倉敷町に山陽鉄道倉敷駅が開業、初めて鉄道ができる。
1921年(大正10年) - 児島地域で学生服の生産がはじまる。
1923年(大正12年) - 倉紡中央病院(現倉敷中央病院)が開院。
1925年(大正14年) - 高梁川改修工事が完成。
1926年(大正15年) - 大原孫三郎により岡山県倉敷市で、倉敷絹織株式会社が設立される。
1927年(昭和2年) - 都窪郡倉敷町・万寿村・大高村が新設合併して、改めて倉敷町が発足。
1928年(昭和3年) - 都窪郡倉敷町が市制施行し、倉敷市(初代)が発足(岡山県で2番目の市)。
1930年(昭和5年) - 大原美術館が開館。
1934年(昭和9年) - 鷲羽山・王子が岳が瀬戸内海国立公園に指定される。
1936年(昭和11年) - 倉敷市歌(初代)を制定。
(1941年(昭和16年) - 太平洋戦争開戦)
1945年(昭和20年) - 水島空襲が発生(6月22日)。水島航空機製作所が米軍の空襲により破壊される。
1948年(昭和23年) - 児島郡の3町1村が新設合併し、児島市が発足。
1952年(昭和27年) - 浅口郡玉島町が市制施行し、玉島市が発足。
1953年(昭和28年) - 水島臨海工業地帯の建設が始まる。
1954年(昭和29年) - 鷲羽山遺跡が発見される。
1965年(昭和40年) - 児島地域でジーンズの生産がはじまる。
1967年(昭和42年) - 倉敷市(初代)・児島市・玉島市が新設合併し、現行の倉敷市(二代目)が発足。倉敷市歌(2代目、現行)を制定。
1968年(昭和43年) - 倉敷市伝統美観保存条例が制定され、美観地区の整備に着手する。
1975年(昭和50年) - 山陽新幹線新倉敷駅が開業(玉島駅から改称)。
1988年(昭和63年) - 山陽自動車道倉敷JCT - 福山東IC間、同早島支線倉敷JCT - 早島IC間が開通。
1988年(昭和63年) - 児島・坂出(香川県)を結ぶ瀬戸大橋が完成。瀬戸中央自動車道が開通、JR本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業。
2002年(平成14年) - 中核市に指定される(全国で30番目)。
地名の由来
現倉敷市の名称は、全国的にも観光地として知られる倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に由来する。倉敷という地名は、中世に支配地の年貢米や貢納物を領主へ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地」に由来しているとする説が地元の歴史家の間では有力とされる。倉敷村はかつて倉敷地であったといわれている。倉敷地は「蔵屋敷が立ち並んだので、『蔵屋敷』地が転訛して『倉敷』地となった」と云われ、また「倉とは船蔵屋敷あるいは水夫屋敷のことを指す」ともいわれる。倉敷村が誕生したのは戦国時代~安土桃山時代の間(1565年~1585年)であるといわれ、『蔵敷』『倉輔』等とも書かれることもあった。江戸時代に幕府代官所が置かれ陣屋町となり、また物資の集散地になり、川港として栄えて豪商の蔵が建ち並び商家町として繁栄。現在の美観地区周辺の基礎が生まれた。
なお、倉敷地は全国各地にあったが、倉敷市同様に現代まで倉敷地に由来する地名が残っている例がある。たとえば同じ岡山県内の美作市林野も戦国時代頃から倉敷村と呼ばれた。なお、こちらも江戸時代に天領となり代官所があった。1918年(大正7年)美作の英田郡倉敷町は旧郷名の林野郷(はいのごう)に由来する林野(はやしの)町に改名し備中の都窪郡倉敷町に倉敷の名を譲った形となった。現在も林野から吉野川(吉井川支流)下流の美作市巨勢(こせ)に下倉敷という字が残っており、宇野バスが運行する路線に下倉敷のバス停があるなど、倉敷地の名残は現在も残っている。
市域の変遷
平成合併前の倉敷市域
明治時代に郡役所が置かれた倉敷、味野、玉島の各村が周辺の村々を吸収し、大規模河川や山地によって隔てられたこれらの地域がそれぞれ市制を布き市域を拡大してきた。
昭和36年、三木岡山県知事が岡山市・西大寺市・旧倉敷市・児島市・玉島市・玉野市・旧総社市を含む33市町村が合併する岡山県南百万都市建設計画が提唱され協議会によりすべての市町村議会において合併合意にまで至った。
しかし、倉敷・岡山・児島の3市の首長は合併申請を行わず、高橋勇雄倉敷市長の失踪(これは三木県知事や森清企画室長の圧力に加え、合併推進派が用意したと思われる男女の議会傍聴席占拠行為、「中国新報」なる赤新聞の発行などによる倉敷市長他関係者の誹謗中傷を新聞記事にして無料配布するなど、調印式前後に高橋市長自身が身の危険を感じたことによる失踪)、そして3市の脱退と三木知事の急逝により結局実現には至らなかった。
百万都市合併構想が頓挫した後、自治省事務次官の救済案の提示により岡山市を中心とする備前ブロックと旧倉敷市を中心とする備中ブロックの二つに分けて各ブロック毎に段階的な合併する方向に方針転換した。その後、合併協議会に加わっていた旧倉敷市・児島市・玉島市の旧3市が合併することとなったが、そのきっかけとなった理由は、それら旧3市で臨海工業地帯の工場用地にまつわる領有権争いを互いに回避したいとの思惑があったためと言われている。つまり、岡山県南百万都市建設計画問題の発端ともなった水島臨海工業地帯が旧3市の区域内にあり、倉敷市水島・児島市・玉島市各地区の海や川など当時の3市の境界線がぼんやりと定まらないなか、領有権争いの勃発を合併により未然に防いだとされる。
結果的に、現在の倉敷市は都窪郡・浅口郡・吉備郡(旧下道郡)・児島郡と広範囲の地域に及んでいる。
※旧倉敷市・児島市・玉島市の合併関係はそれぞれの項目を参照wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
※明らかに場所以外に関するの内容、特に学校や生徒への批評や意味不明な投稿は削除させていただきます。
例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
※平仮名は必須ではありません。追記する場合はカッコ書きでお願いします。
皆さんが本サイトで思い出を語り合われたことのある先生方です。覚えている恩師の名前がいらっしゃいましたら、登録をお願いします。登録は各卒業生のページにある[名前をクリックいただくと感謝をやお礼の言葉を述べるページへ遷移します。(現在工事中)]
マスコットは本サイトの様々なコンテンツを利用することで成長していきます。
割れるまで何度もクリック!!
<姉妹サイト紹介>
倉敷市立緑丘小学校がある
岡山県倉敷市の地域事情