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1979年仲町小へ統合
大雄院小学校は1979年に惜しまれつつ閉校いたしました。1979年仲町小へ統合 日立市杉本町1丁目1番地(現在は日立市白銀町)にあった。日立有料道路の一般道出口から西、JX金属へ向かう道沿いにあたる。大雄院小学校は広大な敷地を抱えたマンモス小学校で、日立市立本山小学校と共に、日立鉱山関係者子弟の教育にあたった。最高児童数は1926年(大正15年)の1246人。師範学校の最優秀卒業生を教師として迎え、大正時代のうちにサッカーやラグビーを体操の授業に取り入れるなど、西洋的な教育も充実していた。また共楽館(現在は日立武道館)を最大に利用した視聴覚教育など、国内でも先進的な教育が行なわれていた。大東亜戦争により軍需産業が盛んだった1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけ、大雄院小学校の児童数は1000人台から1200人台であった。1946年(昭和21年)から1956年(昭和31年)までは600人台から900人台に減少したが、戦後復興により日立鉱山の従業員数が増加、1957年(昭和33年)と翌年には1000人台に戻った。しかし翌1959年(昭和35年)以降は徐々に児童数が減り、1977年(昭和53年)には児童数53名となっていた。日立鉱山間際の1979年(昭和55年)に廃校、日立市立仲町小学校へ統合された。
沿革
1909年(明治42年)2月1日 - 第二日立鉱山尋常小学校創立。
1910年(明治43年)4月1日 - 日立鉱山第二尋常高等小学校と改称。
1916年(大正5年)4月1日 - 日立鉱山第二尋常小学校と改称。
1918年(大正7年)4月1日 - 日立第三尋常小学校と改称。
1923年(大正12年)5月4日 - 日立第三尋常高等小学校と改称。
1940年(昭和15年)3月 - 日立市大雄院尋常高等小学校と改称。
1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により日立市大雄院国民学校と改称。
1947年(昭和22年)5月 - 学制改革により日立市立大雄院小学校と改称、日立市立大雄院中学校併設。
1953年(昭和28年)4月1日 - 大雄院幼稚園併設。
1967年(昭和42年)4月1日 - 大雄院ことばの教室併設。
1970年(昭和45年)4月1日 - 日立教育研究所併設。
1979年(昭和54年)3月31日 - 日立市立大雄院小学校閉校。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
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・東一(とういち) 等
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日立市立大雄院小学校がある
茨城県日立市の地域事情