所在地や連絡先、偏差値等詳しい最新情報を掲載。みなさまから提供いただいた情報も掲載いたします。
卒業年毎の専用ページです。卒業生同志の交流や、同窓会情報、卒業アルバム、クラス名簿など多数のコンテンツがあります。
同窓会の開催情報です。同窓会情報だけでなく、予定が無くてもやりたいという方でも同窓会ホームページを作成できます。
漕代小学校出身の芸能人やスポーツ選手といった有名人、著名人を紹介します。
漕代小学校の評価をいくつかのカテゴリにわけて評価をしています。また皆様からの評判も掲載します。
体育館の舞台裏、教室の落書き、理科室の匂いや実験器具等、学校の様々な場所での思い出を共有しましょう。
漕代小学校出身の卒業生が現在どこで活躍されているか、みなさんのご意見をもとに掲載しています。
在校当時の懐かしい写真や同窓会写真、今の学校の風景など無料で共有することが出来ます。
偏差値情報を掲載しております。 最新のデータはもちろん過去の偏差値情報も掲載しております。偏差値の推移もご覧いただけます。
学校関するみなさまの様々な意見を掲載しております。まだアンケートに参加いただいていない方は是非ご協力ください。
koishirosyougakkou
沿革
学制発布に伴い、漕代地域には目田学校、早馬瀬学校、法田学校の3校が創立した。目田学校の創立時期は不明であるが、早馬瀬学校は大乗寺を校舎として1874年(明治7年)1月に創立し、法田学校は1875年(明治8年)5月に創立したことが分かっている。目田学校は1875年(明治8年)4月に横地学校に改称、法泉院を校舎とした。1880年(明治13年)になると、早馬瀬学校から高木学校が分離した。その後、横地学校と法田学校が1883年(明治16年)4月に統合して就将学校となり、同年同月に早馬瀬学校と高木学校が再度合流して耕道学校となった。就将学校は北教場を横地に、南教場を法田に置き、耕道学校は第一教場を早馬瀬に、第二教場を高木に置いていた。
1884年(明治17年)7月、就将学校と耕道学校が統合して就道学校が開校した。就道学校は本校を横地に置き、北分教場(高木)、中分教場(早馬瀬)、南分教場(法田)の3つの分教場を設けた。1887年(明治20年)4月に就道尋常小学校、1892年(明治25年)4月に漕代尋常小学校に改称を経て、1898年(明治31年)4月に高等科を併設したことから漕代尋常高等小学校に改称した。漕代尋常高等小学校には更に1910年(明治43年)9月に実業補習科が、1926年(大正15年)に青年訓練所が併設された。
1941年(昭和16年)4月、国民学校令により漕代国民学校に改称、1947年(昭和22年)4月に漕代小学校へと校名を改めた。更に1955年(昭和30年)4月に漕代村が松阪市に編入されたことで、松阪市立漕代小学校になった。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
※明らかに場所以外に関するの内容、特に学校や生徒への批評や意味不明な投稿は削除させていただきます。
例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
※平仮名は必須ではありません。追記する場合はカッコ書きでお願いします。
皆さんが本サイトで思い出を語り合われたことのある先生方です。覚えている恩師の名前がいらっしゃいましたら、登録をお願いします。登録は各卒業生のページにある[名前をクリックいただくと感謝をやお礼の言葉を述べるページへ遷移します。(現在工事中)]
マスコットは本サイトの様々なコンテンツを利用することで成長していきます。
割れるまで何度もクリック!!
<姉妹サイト紹介>
松阪市立漕代小学校がある
三重県松阪市の地域事情