例)苦労して作ったクレープの模擬店が大好評で楽しかったです。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白文化祭: | あ 俺監督なんだが脚本は違う人なんでよろ |
文化祭: | 文化祭が存在していなかったような、、、 |
文化祭: | 学園祭やら文化祭はなかった |
文化祭: | 已小フェスティバルと言って学校の生徒だけの文化祭みたいのがありました |
文化祭: | あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん |
文化祭: | コロナが流行るまでは班ごとに色々イベントやったのが楽しかった。自分は箱の中身は何だろなとかやったけど面白かったなぁ。 |
文化祭: | 片小フェスティバルとアプロの歌 |
文化祭: | 運動会 |
文化祭: | 水泳部の顧問がイケメンマッチョでプレイボーイとして有名だった。水泳部の顧問の先祖は人々を斬りつけていた武者だった。 |
文化祭: | 学芸会は小学校5年の時は「ハンガリー舞曲第五版」を小学校6年の時は「ハンガリー舞曲第六番」を学年で演奏しました。 |
給食: | 給食センターから運ばれてくるため、ハンバーグとかはとっくに冷めていた。 |
校庭: | 学校が終わり,すぐ家に帰り, ご飯と味噌汁を食べ, すぐまた学校の校庭に 遊びに行きました。 とにかく 日が暮れるまでは校庭でみんなと遊びました。 上級生は 中学校の人達と ソフトボールをしていました。 私は下手だったから 仲間に入れてもらえませんでした。 兄ちゃんは甘かったので 仲間に入れてもらって いました。 私なんかは その周りで遊んでいました。 とにかく 日が暮れるまで 学校の庭は みんなで いっぱいでした。 なぜかと言うと 200 M 以内の 人たちが いっぱいたからです。 学校から帰って走って帰れば 2分で家に着き ご飯を食べて すぐ学校に帰れるんです 。 そういう恵まれた 近くに学校がありまし た。 |
校庭: | 縄跳びかうまくなる、縄跳び台があって、そこで練習したら二重跳びがスイスイできた! |
校庭: | 打ち上げ花火の見れる夏祭りをこちらの校庭でやっていましたが、今でもやっていますか?? |
教室: | 冬には教室に薪ストーブ、その後石炭ストーブになりました。ストーブの周りに弁当を並べ暖めていました。 |
運動会: | 騎馬戦や棒倒しをやりました。棒倒しは青竹の上に旗を差し、この周りに守備担当の生徒が立てた棒を支え、その周りには攻めてくる相手のチームを捕まえる役目が居ました。反対に攻撃の担当の生徒は相手方の棒によじ登り倒して旗を取るという可なりエキサイトした種目でした。棒によじ登る生徒のパンツを引っ張って引きずり降ろす場面もありました。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
校庭: | 野球挫折して、サッカーがんばったな。 |
教室: | 日本初 小学校で二モやドリーをかったけ? |
保健室: | 保健室常連です |