川崎市立商業高等学校の文化祭

懐かしい川崎市立商業高等学校の記憶を共有するページです。

川崎市立商業高等学校の文化祭

川崎市立商業高等学校在校時行った楽しい文化祭や学園祭、そこで行った催し物一生懸命準備した記憶をつづってください

川崎市立商業高等学校
文化祭の思い出

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例)学園祭でやったライブが忘れられません。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の文化祭での記憶

文化祭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 文化祭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
文化祭12期
文化祭高校の文化祭といえば飲食店を出店するのが多いと思うが、この高校は開校当初から芝居劇を出し物にするのが多かった。
文化祭文化祭は、吹奏楽部として発表できる最高の場と思うが、当時は流行歌の演奏は禁止と言われて残念だったが、卒業してから後輩に「ブルーライト横浜」の譜面を送ったが、発表会で演奏で出来たかな~?昭和40年代中頃の話、秋の時期になると思い出します。
文化祭展示は美術や書道・家庭科などの授業で制作した作品や海外留学した生徒のレポートなどがあった。
文化祭一人で引き語りをやったことがあります。
文化祭非公開の文化祭で関係者や在校生の家族ぐらいしか呼べなかった
文化祭若菜祭でやりましたね。懐かしいですね。
文化祭入学して朝礼が無い。文化際の前夜祭のフォークダンスのパートナーを探さないといけない。パートナーチェンジが無いので必死でした。
文化祭クラス単位でテーマを決めた仮装行列が懐かしい。
文化祭私は10期生ですが、その当時、文化部発表会は学校内だけのイベント、いや、学校行事でした。他校の生徒さんや中学生はもちろん、保護者も参加できない完全非公開の文化部発表会でした。でも、ステージでの劇やライブあり、教室を使っての迷路やお化け屋敷などの展示あり、校内全体を使ってのウルトラクイズをやったりと、それなりに皆んな楽しんでたと思います。

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
プールプールを使う授業は、男子のみ1学期中にあった。女子は夏休み中に登校日の二日間のみ、夏休み中という事もあり、プールの水は藻で緑で、まるで溜め池の様だった。目も開けられない位に濁った水。
謝罪高校入学後、中途半端に悪い方に向かい退学という形で去りました。クラスのみんなは最高に楽しい良い奴ばっかりだったな。本当にみんなと卒業したかったです。
記録開校当初、男子夏服は白カッターシャツにアイボリーズボン。私服と見分けが難しく下校途中に千里中央に寄っても「一旦帰宅しました」と生活指導の先生を言い包める輩も。逆に冬服は当時珍しい紺ブレザーにグレーズボンですぐ東豊中高校の生徒とバレた。
告白1年先輩グレーのマフラー貰いました四つ葉のクローバーペンダント笑顔な可愛い人でした
怪談ちょっと何言ってるかわからない
音楽室軽音の後輩がピアノの練習に来てて、ペダルの踏み方を教えてあげました。竹上、ピロシ、元気にしてる?
柏倉美令さん、あなたのことが、高1から気になっていました。通学時のバスで、一緒になった時は、ドキドキ
教室海が見える教室で授業を受けていると、なんだか全てがちっぽけに思えてきて、やる気が削がれた思い出。
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!
屋上屋上あると思ったら、ありませんでした。


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