例)暖房器具がなくて石油ストーブでした。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白教室: | 小さい教室なので、先生の目がみんなに行き届いた! |
教室: | ストーブ |
教室: | 変わっていたな |
教室: | 私の時は木炭で、日直さんがカスを取るのですがまっくろな灰が今でも忘れなれない良い思い出です。 |
教室: | 1年生の教室の扉にカッティングシートでクラスの目印をつけていた。色別だった?5組は赤の気がする。張り替えてる時の先生と話してた思い出がある |
教室: | 木造校舎が残っていた頃友達と校舎のガラスを割っていました。 ごめんなさい。 |
教室: | へんなあだ名ばかり付けられてた、やっこさんとか、ごめん安川とか、まあー楽しんだけど、みんなけんき??私は、千葉の佐倉で、仕事してます、だれか千葉に、転勤で、来てるなら連絡ちょうだい現在 50歳です |
教室: | 木造二階建ての校舎で、廊下を走るとドンドンと音が響いた。走ると「週番」の腕章をつけた人に叱られた。雨天には校舎全体で独特の臭いがした。講堂がなかったので、卒業式など大勢が集まる時には教室の仕切りを取り払って3−4教室をつないで出来たスペースで挙行された。 |
教室: | とにかく古い! |
教室: | 私もしっかりと覚えてます!トイレすごかったですね〜(^_^;)教室のすぐ外ではウシガエルがモーモーと合唱もしてました。 校舎建て替える前の木造校舎も一年の時通ってましたがその当時の写真があれば見たいです。 |
体育館: | すこやかにのびるからだにかぎりなく希望の光ふり注ぐみどりの丘に聞こえるよ、嗚呼われらわれら千里の子供西丘小学校、体育館でよう歌った。 |
恋: | 音感の女の先生人気だったな… |
恋: | 加藤宏美さん今でも彼女の笑顔以上の女性に出会っていません |
謝罪: | 若気の至りですが、在学中に調子に乗り、スカートめくりをやり過ぎて、難波先生のクラスで公開謝罪をさせられました。あの時、泣かせちゃった女子の皆さん、本当にごめんなさい。それにしても難波先生恐かったです。(真摯に反省) |
怪談: | 体育館には白い霊がいました(複数人が見ています) |
職員室: | 日俣先生のお姉さんが女優の左幸子さんでした。職員室横の校長室前の廊下には来校されたときの写真が飾ってありました。 |
飼育小屋: | ウサギ小屋 |
校庭: | 昭和35年生まれです。当時は校歌に振りが付いていて、運動会に高学年が披露していました。色々検索しましたが、ダンス映像や思い出等が見つかりません。現在はやっていないのでしょうか? |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
校庭: | 猫小屋で子猫飼ってた あとお昼休みに放し飼いのニワトリにめっちゃ追っかけられた |