仙北市立桧木内小学校の告白

懐かしい仙北市立桧木内小学校の記憶を共有するページです。

仙北市立桧木内小学校の告白

仙北市立桧木内小学校幼かったあの頃、言いたくても言えなかったこと。伝えたくても伝えられなかった想い。愛の告白や今なら言える秘密を打ち明けて見るのも。伝わるかどうかは分かりませんがここで打ち明けてみませんか。
※不特定多数に個人が特定デリケートな情報はお控えください。

仙北市立桧木内小学校
告白の思い出

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例)本当は大好きでした!










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の告白での記憶

告白での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 告白での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
告白返事はOKだです。付き合いたいて、言われたのは、始めてです。aさん。
告白篠沢範子先生大好きでした。旦那様が羨ましいです。
告白谷内こういちろうが好きでした
告白名無しさん、多分わかります!(その先生の名前) 有名ですよねー
告白えみこと、村山友紀子ちゃんの事が恋愛感情で大好きだ
告白あの、電話ください。会わないで帰ってきたから!心配になりました。
告白朝の下駄箱の想いで懐かしいよ
告白先生からの体触られたり、こちょこちょされたり小学校6年間あるうちの5年間同じ先生だったのがとてつもなく嫌だった、もっと違う先生だったら小学校生活最高だったと思う。あの事があってから男子とあまり話せなくなったし、男の先生が怖くなった。
告白あああああああああああ
告白古江さんへ古江さんいやはーちゃんずっと前から好きでした付き合ってください!あとディープキスと普通のキスとはぐしてください

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
プールシャワーは解る、腰まで浸かるあれの意味が解らん!未だに。何の為だったんだっけ?
運動会やまざきゆいちゃんとびこんでね
校庭校庭からは正面に香春岳右手には三井炭鉱の二本の煙突があり絶景ポイントでした。
トイレトイレ前の手洗い場、覚えている方いますか?掃除当番の時、アイスホッケーならぬ石鹸ホッケーしたのが、今でも心に残る楽しい思い出です。
教室木造二階建ての校舎が三棟建っていたと思います。
給食やまざき唯の旗画にして写真撮影してね
怪談トイレのドアがギーギー言ってて怖かった
運動会学校の前の校庭で行われたこともあった(?)ようですが、鶴山公園の北の鶴山公園球技場で行われたことをよく覚えています。当時は周りが北側が緩く3段ぐらいになっていて、南側が4段か5段ぐらいになっていて、確かコンクリート製で南側が放送席になっていました。卒業生や家族が観覧をしていました。ある先生が、運動会の後で卒業生たちが、出たゴミの後片付けを率先して行っているのは感心だと言っているのを覚えています。
屋上屋上に行ったことがありません。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


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