例)本当は大好きでした! |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白告白: | 本当に貴方と結婚を考えた時がありました |
告白: | ああ、初恋人もに会いたいね。今所にいるのかな。でも、内緒かな、あの人に。 |
告白: | 好きでした。実は野球部の練習をこっそり見てました。 |
告白: | 寂しいです |
告白: | 給食袋の1センチマスに綺麗な字で書いてくれた席が隣の女の子!可愛い子でした、あまりにも綺麗な字で書いて有って、両親がビックリしてました、私の字はその当時ミミズが二日酔いの様な字でしたから、見てて、凄い!って幼いながら思いました。 |
告白: | まだ結婚していません。 |
告白: | 嫌われていたが好きです |
告白: | 同級生 |
告白: | あの時に戻りたい‼️ |
告白: | 何かと引き換えに好きな人を言うのがクラスで流行っていて、私も当時はやっていたねり消しをもらって同じクラスだった好きな人本人に告白しました。 |
給食: | 1998年の創立当時からいた者ですが、パンはコッペパンの他に黒糖パンがあった!これは他の学校では無いのでは?あとみそおでん、春雨サラダ大好きでした。 |
告白: | yちゃん、フラれたけど好きだった |
図書室: | 当時図書委員長をしていたのですが図書委員のほとんどの人は振り返りジャーナルというお題に合わせた文を書くということを当番の時にやってました笑 |
音楽室: | 音楽集会委員と合唱の練習によく通いました合奏めっちゃ好きでした |
教室: | 中山先生が机蹴ってんの怖かったなぁw |
音楽室: | とても明るい雰囲気の活発な先生でした同窓会やりたいですね |
怪談: | まだ七砂小が木造校舎だった時の話です。その日は運動会でした。おしっこがしたくなった私は急いでトイレへ。確か今でいうと正門を入って左手あたりにあったと思います。もしかしたら右手かな?50年以上前の事なのでその辺ははっきり覚えていません。当時のトイレは校舎から突き出た感じで設置してあり、校舎の外からも入れるようになっていました。運動会のこの日は皆校舎の外から入っていました。トイレの建物の左右に外から出入りするための戸がありました。私がトイレに入った時は誰もいませんでした。おしっこをしているとトイレの外で赤ちゃんの泣き声がしてきました。弱弱しく可愛い声でずっと泣いています。運動会なので多くの人が来校していたので赤ちゃんが泣いていても不思議ではありません。親があやしている様子はありません。不思議に思い泣き声のする外に出る戸の方へ行くと泣き止み、今度は反対側の外に出る戸の方から聞こえてきます。親が抱っこして歩いているのかと思ったのですが、よくよく考えると赤ちゃんを抱っこしたまま一瞬で10mほど移動したことになります。今度はそちらの戸の方へ向かっていくと泣き止み、また反対の戸の方から聞こえてきました。もうこの時点で何かおかしいと思った私は外へ出る戸を開けることができなくなりました。もし開けたらとんでもない怖いことが起こるのではないかと思ったのです。「どうしよう。」と思っていたら突然戸が開き「漏れるー。」と言いながら何人かの上級生が駆け込んできました。「たすかった。」と上級生と入れ違いに思い急いで外へ飛び出しました。「あれは何だったのか?」4歳年上の姉にそのことを話したら「あっ、それ有名な話。出るらしいよ。友達に泣き声聞いたっていう子何人かいるし。」とのこと。深川生まれで第二砂町小学校出身(古い方の二砂小ね)の父にもこの話をすると「ああ、東京大空襲の時とかずいぶん死んだからな。お父さんの友達もたくさん死んだ。空襲のたびに友達いなくなるんだよ。その時死んだ赤ちゃんがお母さん恋しくて泣いているのかもな。」なんてこと言うものだから私は二度とそのトイレは利用しませんでした。そしてだんだんと今の鉄筋校舎に代わっていったのです。確かプールの位置だけは昔と同じ場所だと思います。プールの怪談っていうのもあるんですよ。ふふ・・・ |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
飼育小屋: | ウサギを飼っていた |
体育館: | プールに同じ |