福岡県立福岡講倫館高等学校の卒業式

懐かしい福岡県立福岡講倫館高等学校の記憶を共有するページです。

福岡県立福岡講倫館高等学校の卒業式

福岡県立福岡講倫館高等学校楽しかった学校の最後の日皆さんはどんな時間w過ごしたのでしょうか。親友との別れやライバルとの未来の約束、お世話になった恩師への感謝の気持ちを伝えたり、淡い想いを伝えられずに遠くで見守った片思いの人との思い出。あたは失敗した話や卒業式あるあるなどをなんでもいいので皆さんで卒業式の楽しい思い出を共有しましょう。

福岡県立福岡講倫館高等学校
卒業式の思い出

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例)卒業式に親友たちと別れるのが名残惜しかったです。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

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他の高校の卒業式での記憶

卒業式での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 卒業式での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
卒業式私は、昭和62年度卒業生ですが、薫英の同級生たちの中では、母親から、子供扱いされている人は、私一人だけです。母親から、子供扱いされる度に、薫英の同級生の人たちの顔を、思い出し、イライラし、金曜日は、仕事を、待つ事が、多く、金曜日には、仕事を、待っている時に、母親から、子供扱いされる事を、思い出したりする事と薫英の同級生の人たちの顔を、思い出したりする事が、絡まってしまい、心の不調を、訴えるように、なり、令和元年12月27日から、金曜日には、暫く、仕事に、行けなくなりました。
卒業式卒業式は刑務所や少年院をやっと出所出来るような気分でした。
卒業式学園紛争で荒れた年だったので、卒業式に出た記憶がない
卒業式卒業式が終わって友だちと別れる時に「また明日」て言いそうになって、途端にさみしくなった。また会いたいね。
卒業式卒アル
卒業式1番前の席に座って卒業式に参加していた。退場曲は卒業生アンケートで選ばれた、永井真理子の"ZUTTO"。凄く楽しみにしていたのに、1番に退場してしまったので、前奏の間に退場してしまった。歌が全然聴けなかった!退場した後、友達と「歌聴く前に出てしもーたがなー!」って大爆笑した!
卒業式卒業式の思い出は、卒業式も終わり教室に帰り、担任の先生から送られた言葉です。「これからの人生、色々なことがあるだろう。・運・鈍・根を送る。」と言われました。今でも時々、思い出します。教室ではクラスメートが名残惜しそうに教室から出ていかなかった。
卒業式最後の卒業生でした。2023年3月2日卒業式から20年、2023年3月31日で閉校から20年でした。2003年3月はSMAPの大ヒット曲世界に一つだけの花が発売した月でした。学校からもらった卒業お祝いで世界に一つだけの花のCDを買いました。
卒業式やっと卒業みんなと別れる解放感気持ち良かった。好きで行ってた訳じゃないから。公立落ちた人みんな同じだと思う
卒業式1983年そ

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
プールプールは 無かったょ!
文化祭当時の文化祭でパン食い競争がありました。同級生の地元のパン屋のパンが使われてましたが、またあのパン屋のパンが食べたい。割と美味しかった。
比嘉礼子さん好きでした。
文化祭当時、文化祭での飲食店は禁止でしたが、先生達と議論を重ね、「メロンミルク」という喫茶店を開きました。生徒指導部の赤尾先生達も何度も足を運んで頂き、大成功だった。
保健室保健室のオバサンに文鎮で殴られた
体育館かくれんぼができて楽しかったです、特にバレーボールの時間が好きでした。
卒業式かおり友の会の会員に、なっています事が、生理的に、ストレスと、なります。
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!
感謝卒業間近になり、先生の言葉で思い出すのは、どんな種類の資格であれ、機会あれば1個でも多く取得して欲しいとの事。いざと言う時に忘れていても、調べれば良いし思い出せばよい、。資格を持っている限り、人生において必ず役に立つ時がある。50年以上前の話ですが、何回か役に立ちました。教えて頂き有難うございました。
教室土屋に竹内は浪人して高校に来た。馬鹿だよね。


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