例)夜になると下駄箱にお化けが出るといううわさがありました。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白下駄箱: | カダカの靴が臭すぎた |
下駄箱: | ニワトリ小屋の方の下駄箱で夕方五時にキスをするとその人と結婚できるってありましたよね?確かに一個上の先輩結婚してたんで本当なんだと思ってました |
下駄箱: | ここは土足なので下駄箱はありません!海外みたい! |
下駄箱: | みんなの足の匂いがぁ〜… |
下駄箱: | 教室の床変えてほしいんだけど。 |
下駄箱: | やったぜ。 2007-12-12 00:22:03 | 糞親父語録 やったぜ。 投稿者:変態糞土方 (8月16日(水)07時14分22秒) 昨日の8月15日にいつもの浮浪者のおっさん(60歳)と先日メールくれた汚れ好きの土方のにいちゃん (45歳)とわし(53歳)の3人で県北にある川の土手の下で盛りあったぜ。 今日は明日が休みなんでコンビニで酒とつまみを買ってから滅多に人が来ない所なんで、 そこでしこたま酒を飲んでからやりはじめたんや。 3人でちんぽ舐めあいながら地下足袋だけになり持って来たいちぢく浣腸を3本ずつ入れあった。 しばらくしたら、けつの穴がひくひくして来るし、糞が出口を求めて腹の中でぐるぐるしている。 浮浪者のおっさんにけつの穴をなめさせながら、兄ちゃんのけつの穴を舐めてたら、 先に兄ちゃんがわしの口に糞をドバーっと出して来た。 それと同時におっさんもわしも糞を出したんや。もう顔中、糞まみれや、 3人で出した糞を手で掬いながらお互いの体にぬりあったり、 糞まみれのちんぽを舐めあって小便で浣腸したりした。ああ~~たまらねえぜ。 しばらくやりまくってから又浣腸をしあうともう気が狂う程気持ちええんじゃ。 浮浪者のおっさんのけつの穴にわしのちんぽを突うずるっ込んでやると けつの穴が糞と小便でずるずるして気持ちが良い。 にいちゃんもおっさんの口にちんぽ突っ込んで腰をつかって居る。 糞まみれのおっさんのちんぽを掻きながら、思い切り射精したんや。 それからは、もうめちゃくちゃにおっさんと兄ちゃんの糞ちんぽを舐めあい、 糞を塗りあい、二回も男汁を出した。もう一度やりたいぜ。 やはり大勢で糞まみれになると最高やで。こんな、変態親父と糞あそびしないか。 ああ~~早く糞まみれになろうぜ。 岡山の県北であえる奴なら最高や。わしは163*90*53,おっさんは165*75*60、や 糞まみれでやりたいやつ、至急、メールくれや。 土方姿のまま浣腸して、糞だらけでやろうや。 |
下駄箱: | 靴から上履きに履き替えていたのが懐かしいです。 |
下駄箱: | すごい、砂マルケで掃除が大変そう。 |
下駄箱: | 盗まれたものが返却される場所が下駄箱w |
下駄箱: | 下駄箱の上にお花がおいてありました。 |
感謝: | 北部小学校で仲良くしてくれた、友達みんなありがとうございました。みんなにもう一度会いたいな(^ ^) |
入学式: | 5年生の時 友達と あそんでいて ガラス わりました |
記録: | 高田直樹先生の時に、誰が忘れ物をするとペナルティを課せられました。ノートに漢字を書いて提出しろと言われました。 |
トイレ: | ある昼間に図書室前の女子トイレ、に赤いスカート履いた女の子立ってたんだが、私自身が少し目をはなしてもう一度見たらいなくなってた、入り口にいたのに私が |
教室: | 小学校低学年の授業はほとんど覚えていませんが結んで開いてをやりました。 |
教室: | 壁が取り外しできてオープンな |
飼育小屋: | 鳥しんだ |
音楽室: | オルガンを教えて貰って弾いていました。4年になると本校に通い、おじさんがピアノを寄付してくれたのでそれを弾いていました。卒業して教職に付いてからも本校で式典では必ず任され弾いたものです。 |
図書室: | 図書館にあるストーブの前で歴史のマンガを読むのが好きだったな~ ストーブの取り合い、楽しかった。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |