例)プール開きの前にみんなでプール掃除をしました。 |
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学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白プール: | 思い出は1年生の時に水着忘れてめっちゃ怒られた事 |
プール: | 3番目のトイレは…|д゚) |
プール: | 猪俣?猪俣?校長先生が水泳が得意だった |
プール: | コンクリートのプールが、綺麗にビニル?コーティングされて新しくなった…のはいいが、ロッカーで滑って後頭部強打して一瞬記憶飛んだ。 プール竣工記念のホチキス、まだ持ってるわ。 |
プール: | 先輩から後輩へ受継がれる呼び名をもつシャワー…「地獄のシャワー」!! あれ凄い冷たい。。小1の時6年に「これじごくのシャワー」って言うんよ って言われたんだけど、小学校を卒業し数年経った今、1年生の子にシャワーなんて呼んでるかきいたら「地獄のシャワーだよ!」との事… 他の高屋西出身の方はなんて呼んでいたのでしょうか!やっぱり地獄のシャワーかな?? |
プール: | 昭和40年ころ、水泳部でした。そのころまでプールはありませんでした。夏の終わりの大会に向けて毎日1000m泳ぎなさいと言われながら、水の音と入道雲を見ながら(背泳ぎでした)つらいなと思いながら泳いでいました。 |
プール: | プールは無くて、福戸小学校のプール借りてた |
プール: | ほとんど池のようで中で目を開けることなどできない有様 プールと言うよりは防火用水。初音小のプールに行った。 |
プール: | 夏休み無しで ひたすた泳いだ記憶 練習は午前と午後の2回あった クラス別で練習の内容もバラバラで1番上のクラスより2番目のクラスが成績が良かった 各クラスを受け持つ先生が違う為 当然タイムで競い合い大きい大会などに参加してました 当時6年生の友達は寝屋川のトップタイムで記録して有名でした たもっさん(先生)どうしてるんかなぁ 軽量セルボに乗ってなぁ 校庭暴走の記憶も(笑) |
プール: | 授業でやる内容が泳げる人にとったらすごくつまらない。だけど夏の市大会などは表彰もされたので思い出に残ってます |
校庭: | 小学2年の運動会に親子リレーがあった。足の遅い私はビリだったけど足の速い母が追い越して1位になった笑 |
プール: | 友達探したいです |
音楽室: | 去年までの先生がピンク好きのやさしく面白い先生だった |
教室: | 木造の廊下で私のクラスでぬかぞうきんで、ピカピカに磨いたことがあった。でも 隣のクラスからたぶんクレームがついてーーー 一時期だけで終わった記憶があります。 |
教室: | 昭和36年と37年しか在籍してないのですが、教室の暖房が火鉢だった記憶があります。でも最近、自分の記憶に自信がなくて、誰かそうだったと言ってくれる人いないかな |
音楽室: | 音楽発表会の練習、辛かった。。。。。 |
飼育小屋: | 今はウサギを五匹飼ってます |
入学式: | 入学式は、桜が、咲いてた |
図書室: | 休み時間に本棚のうしろに鼻をかみに行ってたら図書室担当の先生の、受け持ち生徒らに吊し上げにされた思い出♡「ここは鼻をかむところではありませーん!」 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |