都留市立谷村第一小学校 懐かしの光景

懐かしい学校の記憶を共有するページです。そこにあった物、風景、うわさ話などをぜひ教えてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

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記憶の部屋

思い出の光景ページへ過去に投稿された内容を表示しています。

昭和28年ごろで5年生だったと思うが、担任はお姉さんのような美しい溝口先生だった。 教室は8人程度の班に分けていた。当時教室は50人弱程度いたから6班程度があったと思う。国語の本を班ごとに読ませ、読み間違ったら次の人が読むというやり方で、各班にどのくらいの行を読むことが出来たかを競争をさせ、一番負けた班がその日の教室掃除を担当することになっていた。当時花菱アチャコや横山エンタツという喜劇スターがいてよくアジャーパーなんて言葉がはやっていた。 読み間違えるとアチャー!やアジャーパー!なんて言って他の人を笑わせたりしたものです。このころ今ではフウテンの寅さんの言葉で有名だが、女子には俺をー君ではなく、オイチャンと呼べと言って笑わせていた人もいた。また先甲府に重病の女の子が手術を受けるお金が足りないという新聞記事があり、先生の提案があったと思うが、皆で話し合って、その子を応援するために新聞紙などで袋を作ってお店に行ってそれを買ってもらったり、遠くの山に行って柏の葉っぱを取ってきて店に買ってもらったり、小遣いを出し合ったりしてお金を作り、甲府送ったという思い出があります。当時これはこの組にいた女子にお父さんが新聞記者をしていた人もいたためか山梨の新聞にも載り、皆で喜びあった記憶があります。それは、それは、溝口先生のお陰であるのですが、まとまりのある素晴らしいクラスでした。先生も皆様も今なお、お元気であればよいのですが。 (54)
(2016/11/03 11:01:35:名無し)

校庭には時々平均台が置かれていた。ただし、その上で演技している生徒は見たことがなかった。僕らは手だけを使ってお互いを落とすゲームを楽しんだものであった。あの平均台はいつ使ったのだろうか。このゲームのお陰で平衡感覚が身に着いたような気がする。(5)
(2018/03/02 20:44:24:名無し)

まだ木造2階建ての校舎の頃、職員室の前の校庭に大きな杉の木があった。その横には高い石台の上に二宮金次郎の像があった。この台の上でショーベンしたいなーと友達と話したものです。また小学校4年生の頃に校歌ができ、校歌の2番に、根差しも深き大杉の、こずえに響くオサの音・とあったこと思い出す。(39)
(2016/11/01 08:20:19:名無し)

都留市が誕生したばかりの頃で、音楽室がどこにあったの知らない。講堂に大きなピアノが置いてあったので、これが音楽室として使われていたのではないでしょうか。(6)
(2016/11/05 10:56:16:名無し)

夏休みは最も楽しみな行事だった。宿題さえなければ最高だった。朝から夕方まで、山や川へ行き、思いきり遊んだものだった。ナイフは必需品だった。これで多くのものを作った。仲間と一緒に、山では藤のツルを切り集め、木の枝にハンモック上のすみかを作ったっり、竹トンボや釣り竿も自分で作った。今の時代なら親が危ないからと言ってナイフは持たせないでしょう。宿題は毎年やり切れず、いつも先生に怒られるのが常でした。いつも夏休みが終わる頃は、来年はしっかり宿題やろうと思ったものですが、全く実行できず、毎年その繰り返しでした。でも本当に楽しい小学生の夏休みでした。(35)
(2017/07/24 09:56:33:元小学生)

この小学校6年生だった昭和20年代後半のこと、男子は他の小学校とたびたびソフトボールの試合がおこなわれた。(女子はきっとドッジボールの試合があったのだろうと思うが思い出せない)。当時、谷一は守備もすごくうまい選手が多かったが、打撃ではすごい選手がいた。S君、I君である。彼らはスターだった。とんでもなく遠くにホームランを打つので、相手校の先生(監督)はすべてボール球をなげるよう指示していた。それでも彼らは踏み込んで遠くに飛ばすので、その次には、すべてゴロを投げ、フォアボールとして一塁に出していた。こんなことをしても、我々に勝てるわけないよと笑いながら、応援していた。その日の試合は、接戦ではあったが、結果的に負けてしまい、本当にがっかりし、とても悲しかった。家に帰りながら思ったことは、対等に立ち向かえない相手には、作戦というものが必要なのだということであった。谷一ホームページ見つけて、校庭について何か投稿しようと思ったとき、こんな些細な出来事を思いだした。(30)
(2016/11/16 20:50:55:元谷村健児)

小学校5年の頃だったと思うが、郡内地方に時津風部屋の大相撲の巡業があり、我、小学校にも土俵がつくられ当時横綱の鏡里や山梨出身の甲斐の山がやって来た。朝の稽古も見た。土俵上で行う稽古は幕内や十両力士であった。新人や序の口に近い力士は,当時小さな溶岩のかけらが出たり転がっている校庭で稽古していた。兄弟子に何度も何度もぶつかって転がされ続け、体に血をにじませていた。すさまじい稽古だった。見ていた女子などはかわいそうだと声を上げていた。力士はこのような厳しい稽古により涙を流しながら強くなっているのかと思った。その後校庭や砂場で相撲とるのがはやったが僕はあまり強くはなかった。あの時転がされていた力士はその後強くなったのであろうか。(37)
(2017/04/02 22:11:24:あの時)

小学校の時、図書室に入ったことがなく、どこにあったのかも思い出せない。 (3)
(2016/11/05 10:50:07:名無し)

“蛍の光”と“仰げば尊し”を聴くと、小学校の卒業式を思い出す。中学校、高等学校でもこれらの歌を聴き、歌ったかもしれないが全くと言っていいほど思い出せない。小学校の卒業時には、初めての仲間との別れであり、それまでに仲良くなった級友、好きだったクラスの女子と別れるのが寂しく、悲しかったからなのかもしれない。(23)
(2018/03/18 08:51:02:名無し)

親に連れられて小学校の校庭に行き、クラス分けのため、名前を呼ばれたら元気な声で返事をして、列に並びなさいと言われたこと思い出す。その後担任の先生と対面し、いろいろのお話を聞いたはずなのですが、この後のことは全く覚えていない。(8)
(2018/03/18 09:02:13:名無し)

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