例)学校の記録的事件 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白記録: | 看護科の同級生からひどいいじめを受けた、自分は途中で学校を辞めてしまい苦しい思い出を植え付けられた。その人は性格きついから看護師にあってるわ。今頃ヒィヒィ言いながら働いていると思うとざまあみろって思う |
記録: | ある人が暴れて学校の器具、ガラスを破壊していました。。 |
記録: | 開校当初、男子夏服は白カッターシャツにアイボリーズボン。私服と見分けが難しく下校途中に千里中央に寄っても「一旦帰宅しました」と生活指導の先生を言い包める輩も。逆に冬服は当時珍しい紺ブレザーにグレーズボンですぐ東豊中高校の生徒とバレた。 |
記録: | 1971年に大阪府下71番目に出来た公立高校だったので「71」をあしらったデザインの校章だつた。 |
記録: | たんおまなと |
記録: | 学校の記録ではないけど、3年間皆勤賞だった私~無遅刻無欠席、学校が楽しかったからこそ通学できた~いい友達といい先生に恵まれて~卒業式の前日に何人かの皆勤賞の人が表彰してもらい記念のアルバムをもらったな~いい思い出になりました |
記録: | 東大出たものだけで親睦会をしたいね。 |
記録: | 苦手な人、嫌いな人がその辺にいたら悪口三昧と暴行をしても良いと言う考え。社会的身分が高いから暴行をしても良いとか、大学に進学をするから悪口三昧と暴行をしても良いと考える行為。社会的身分が高いから個人を暴力を奮っても良いとか、それが罷り通っている社会が怖い。高校に入る前、公でない所ですでに暴力奮って学校生活を送っている今一年生。祖父母も過去に暴力を奮って逮捕。それが中部高校の祖父母。暴力をもらった娘は病院通いしました。高校からでていってくれ。 |
記録: | 中学浪人して、大学も3回浪人、医者はあきらめ浮浪者だね。 |
記録: | 休みすぎて単位落としたのか?赤点取りすぎてたのか知らんけど進級出来ないのが数人いてダブってて歳違うのに同級生になってるのが数人いた |
トイレ: | 福島高等学校コンテンツ 総合掲示板 有名人 福島高等学校出身有名人 記憶の部屋 同級生コミュニティ 同窓会を作る 卒業アルバム一覧 卒業生在住地域 福島高等学校の偏差値 福岡県の偏差値 学校名指定検索 小学校検索小学校検索 中学校検索中学校検索 高校検索高校検索 大学検索大学検索 幼稚園保育園こども園幼稚/保育/こども園検索 |
怪談: | 体育館前にあった 愛と誠と創造とを表した3人の天使のような絵?がある。雨の日になると真ん中の天使の顔が変わる。 高校のトイレの水を流すとリンリンと鈴の音が鳴る 数学の秋山先生の授業の時にカラスがきて窓際にいた生徒のシャーペンを持って行ったり 犬が入ってきたり 挙げ句の果ては修学旅行で奈良公園に行った時 秋山先生が持ち歩いていた紙袋が鹿に食べられていた。秋山先生は動物を引き寄せる能力があったのかな~。。 |
感謝: | この学校は私たちの生きる意味を見つけてくれてありがとう! |
教室: | 昭和42年度の生徒数は、982名で内548名が列車通学だった様ですが、自分は昭和41年入学なので、548/1名だった事がちょっと嬉しい。今は廃線になった宮之城線の入来駅から温泉街を抜け、坂道を登ると校舎まで通学生の長い列が毎朝の風景だった。BY昭和44年卒業生 |
謝罪: | 先生ごめんなさい |
職員室: | 毎週のレポート提出で緊張してました。規律が整っているのかどの机もキレイでしたね。 |
職員室: | 私の父(平成29年に96才で死亡)が1945年12月~1948年3月まで 英語教師として赴任、と同時に久慈高女でも 教えていたのが25才~28才の 時でした。当時は 住居は 当直室だったようで そこで生まれたのが 私(現在72才)でした。父は 当時 大学卒業と同時の 最初の教師時代で かなり 思い出深い 経験だったと いう話を 聞きました。 |
告白: | 緑が丘の中井美由紀さん |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
卒業式: | 担任の先生が生徒の名前を順番に呼ぶのですが、その時に私の名前が飛びました。機転をきかせてバッと立ち上がったのですが耳は真っ赤だったそうです。教室に戻ってからクラスメートに卒業できないのかーとからかわれました。結果的にいい思い出になりましたけれど。先生方にはご迷惑お掛けしっぱなしでした。感謝しています。今はお堅い仕事をしています。あの頃からは想像できませんが。 |