国東市立大恩小学校の給食

懐かしい国東市立大恩小学校の記憶を共有するページです。

国東市立大恩小学校の給食

国東市立大恩小学校時代の忘れられない給食で出たおかず、みんなで過ごした給食の記憶等忘れられない給食に関する話をつづってください

国東市立大恩小学校
給食の思い出

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例)牛乳一気飲み競争をしました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の給食での記憶

給食での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 給食での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
給食よく牛乳早飲み競争して2秒まで極めるやつがおった。いつもそいつと競争してた
給食給食室は、2~3号棟の間。渡り廊下の1階から出入りしてたかな?確か。
給食カミカミ献立があった
給食ロールキャベツが不評過ぎて、突如として消えた。
給食自称早食いチャンプでした。ライバルは1人しかいませんでした。
給食Mちゃんの机の奥にパンとか色々出てきたのが衝撃的だった
給食ご飯
給食パンとご飯類が交互に出て、特に自分はご飯派だったので、ご飯と海苔の佃煮がめっちゃ美味しかったです!
給食フルーツチンポ!?ポンチが美味しかった。
給食コッペパンが出てきた時に先生がコッペパンダンスをしてその先生のあだ名がコッペパンになった。‪w‪w

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
保健室仮病でよく保健室いって休んでた笑 それでよく早退してたの懐かしい…笑 微熱ばっかり出るから 病院行ったら肺炎のなりかけだったけど…笑
教室思い出いっぱい
教室クーラーが、自分達のクラスだけ、効きませんでした
プール時々、蓋が腐って落ちるヤツが居たな~
図工室像がこわかった。
トイレとても綺麗だったのを覚えてます!普通掃除が面倒くさくてトイレ掃除が多かったような笑だけど、楽しかった!
校庭昔は登校するとすぐ体操着に着替えて1日を過ごしました。 どんなに寒い日でも、昼休みには外に出るのがルール! 日向ぼっこしながら「3並べ」をしてました。
トイレ3番目のトイレには花子さんがいる!って噂があり、みんなで はーなこさん、いらっしゃい って言っていたのを覚えています。
図工室3号棟の最下部。一見すると地下1階。入口は校舎内に無くて、図工室だけ外から靴を履いて移動する必要があった。変な作り。でも、そこがイイっ!
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。


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