院内町立高並小学校の校庭

懐かしい院内町立高並小学校の記憶を共有するページです。

院内町立高並小学校の校庭

院内町立高並小学校の校庭の風景等懐かしい想い出をつづってくださいあの頃の思い出をぜびみなさんと共有してください。
例)体育の時間ではどんな運動やスポーツをやりましたか?
  今ではなんで?と思ってしまう朝礼ではやってたことや面白かったことはありますか?
  お昼休みや休憩時間校庭では鬼ごっこやカン蹴り等どんな遊びをしましたか?
  

院内町立高並小学校
校庭の思い出

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例)夜になると校庭にお化けが出るといううわさがありました。










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その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

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想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の校庭での記憶

校庭での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 校庭での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
校庭つきさーむーふぁいおっ ファイオッってサッカー部が走ってた。月寒ボールははやいはやい光とボールの競争きょうそ yeiえこyeiyei みたいな歌あった。
校庭地球儀でよく遊んでた。
校庭校庭の隅に手長の丘があり、冬はスキーをやった。木造のアスレチックから落ちる男子が何人かいた。アスレチックの最上部は網状になっていて、畳一畳分も無かったような気がするが、そこで数人集まったよく怪談大会を開いた。
校庭校庭の周りに馬跳びのタイヤがたくさん埋められていて校庭には遊具がたくさんありました。運動会がお祭りのような感じだったと思う。
校庭今も夏には盆踊りをやっているのでしょうか?夜遊びができる唯一の日。カンテラを作って夜の街を冒険しました。
校庭栗原音頭を夏休みに踊った❗
校庭不思議な事があって…校庭内に神社があること。誰を祀っているのか覚えてないけど。
校庭タイムカプセルを埋めたけど埋めっぱなし
校庭つき山は今でも思い出の場所です。
校庭桜の木を境に、遊具のある「Aコート」と、体育とかで使う用の遊具がない「Bコート」に分かれてた。 Aコートの1番奥には丘みたいな高いところがあって、そこには1番大きな遊具があった。 すべり台、吊り橋、うんてい鎖のはしごなどが1つのその遊具に全部備わってて、楽しかった(*^^*)

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
伝説Nスタにk君一家がインタビューされていたので教室で鑑賞した
運動会運動会の時、日の出音頭
下駄箱転校した子の下駄箱をのこしてあったよね。
飼育小屋合鴨農法のために小屋作りました
職員室よく行ってた
体育館ターザン(?)らしきものがあったよね笑笑
学校でモテてた人って誰だっけ?
音楽室うしろの鏡が良かった。
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
飼育小屋登校途中の淀橋市場で野菜をもらってウサギやチャボにやってました。


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