玉川学園久志高等学校の教室

懐かしい玉川学園久志高等学校の記憶を共有するページです。

玉川学園久志高等学校の教室

玉川学園久志高等学校の教室での様々な思い出を教えてください。あの頃の懐かしい思い出をぜび皆さんと共有してください。例えば教室にあった不思議なものや風景など教えてください。

玉川学園久志高等学校
教室の思い出

※ユーザ名と削除パスワードは必須ではありません。

例)掃除用具入れのゴキブリホイホイがいつもいっぱいでした。










[注意]個人を特定できる投稿・誹謗中傷・その他不適切な書き込みは削除いたします。またそうした不愉快な書き込みを見つけた方は「問い合わせ」より知らせていただければ削除いたしますのでご協力よろしくお願いいたします。

その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の高校の教室での記憶

教室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 教室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
教室ある時、ギャーギャーと断末魔?悲痛な泣き声が教室まで響きわたり授業が中断、原因は農業科の生徒による、子豚君の去勢手術と判明した。農業科の生徒の残酷な行為の割に、子豚君は、チンチンだけに赤チンを塗布して貰ったそうです。
教室視聴覚室はいつも閉まっていたような印象がありました。
教室入学時は木造2階建て校舎で、既に新校舎に立て替えが決まっており、その年の文化祭の準備は教室は釘やらうち放題トイレは簡易水洗って言うのかな、ボタンを押すと泡がブクブク出てくるような代物でした。学食の素うどん130円も2時間目の休み時間によく食べに行きました。
教室当時A組~E組まであって夏は扇風機もエアコンもなくて窓とドアを開けて風を通していたけど、C組だけ風が一切通らなくて地獄みたいな暑さしてた。
教室冬は石炭のストーブが入っていた。化学の復習と言っては、ストーブに鉄製の火箸を入れ赤熱させ、それを取り出し、横に置いてあるバケツの水に突っ込んで焼き入れ、その確認などと言って火箸をくの字曲げてしまったこと思い出す。
教室私が在学していたS45年から47年には面白い先生が多く、中でも化学、倫理、国語or社会の先生は記憶にあります。倫理の先生は、テストは教科書や黒板に書いた内容からじゃなく、全く関係ない “ 自殺について “ の論文を書かされました。国語or社会の授業では、皆な先生を馬鹿にして早弁したり、イヤホンを学生服の袖を通して耳に当て、分からないように手で押さえて聴いていました。
教室在籍当時、北から電気科ーデザイン科ー建築科ー土木科ー本校舎ー商業科だったきがする
教室アサヒベーカリー大好きでした
教室90年代前半にお世話になった。人間関係悪く毎日学校行きたくなかった。体育の先生が怖かった。
教室自分は、最後の卒業生でした。もうすぐ、17年たつ

高校での他の場所の記憶

他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
教室お前!石炭汲んでこ~い! (なに?俺か?やった~!ずらかろう~!)
プールブールなんて無かったです。
伝説親が大谷行ってた人は何故か子供も大谷行かせる人多い。大昔はお嬢様学校と言われてたらしく子供が他の高校行ける頭レベルあっても推薦で行かせる変わった親多い
伝説葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね!
3年間ずっと先生に恋していました。結婚しちゃいましたけど・・・卒業式に告白しました。最高の思い出です。
教室友達が遊んでいて窓ガラスを割ってしまった
下駄箱土足のままで授業なので下駄箱は無かったな。
文化祭高3の時、急接近してきた女子がいたなぁ、、、
怪談小川高校の七不思議なんていうのもあったわよ。
文化祭教室を喫茶店風にして、ステージでフォークソングをギター片手に友達と二人で一日中歌ってました。歌って


ページの先頭へ