ブーブー セミやらされた人います? 例)あのでっかい三角定規結局使ったの見たことない。 |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白教室: | 制服可愛かったよね❤自由で楽しかった✨教室で食べるお菓子は格別に美味しかった |
教室: | 美術室に大量の石膏像があって、夜見ると動いてるように見えた。大翔館高校に受け継がれてるのだろうか。 |
教室: | 赤い瓦屋根のきれいな校舎でしたよ。 |
教室: | 木の机!木の椅子!汲み取り便所!木造校舎でした! |
教室: | 教室の黒板の下に、年と日付を書いた覚えがあります^ - ^ |
教室: | ロッカーは機械科、電気科、商業科の専門棟にありました。 |
教室: | 私が在学していたS45年から47年には面白い先生が多く、中でも化学、倫理、国語or社会の先生は記憶にあります。倫理の先生は、テストは教科書や黒板に書いた内容からじゃなく、全く関係ない “ 自殺について “ の論文を書かされました。国語or社会の授業では、皆な先生を馬鹿にして早弁したり、イヤホンを学生服の袖を通して耳に当て、分からないように手で押さえて聴いていました。 |
教室: | 冬は、ストーブの排気を利用して教室でたばこ吸ってた |
教室: | 幼稚園の頃 |
教室: | 昭和42年度の生徒数は、982名で内548名が列車通学だった様ですが、自分は昭和41年入学なので、548/1名だった事がちょっと嬉しい。今は廃線になった宮之城線の入来駅から温泉街を抜け、坂道を登ると校舎まで通学生の長い列が毎朝の風景だった。BY昭和44年卒業生 |
下駄箱: | 上履き盗まれた |
卒業式: | 最後の卒業生でした。2023年3月2日卒業式から20年、2023年3月31日で閉校から20年でした。2003年3月はSMAPの大ヒット曲世界に一つだけの花が発売した月でした。学校からもらった卒業お祝いで世界に一つだけの花のCDを買いました。 |
恋: | 松堂百恵さん好きでした。 |
体育館: | 毎年2月の一般入試(学力試験)の前の日になると、1年生・2年生はクラスの机と椅子を体育館まで持っていき、入試会場の体育館へと運ぶ。誰の机と椅子か分からなくならないように、クラスの名前(例:1B=1年B組)を書いた(印刷した、プリントしてある)小さい名札より少し大きい名札大(なふだだい)の紙を机の正面(引き出しの反対側)と椅子の背もたれの板に貼る。しかし、名前やイニシャルが書いてあるわけではないので、私は高校1年生のころ赤ボールペンでイニシャルと出席番号を書いてあげた。みんなびっくりしていたが、これにより混乱は避けられた。(1年生・2年生のみで20クラスぐらいあるので、だいたいそれくらいあれば志願者には対応できる。3年生の教室は3年生が家庭学習期間でもあるので、行わない。) |
体育館: | 柔剣道体育館を作るからという名目で設備費を払っていたけど、卒業してからできたので一度も使えなかった。 |
トイレ: | 臭いんだよ。なんでいつもトイレットペーパーないんだよ。 |
伝説: | 体育教師のうつみ(ハゲ)がうざかった |
運動会: | 後夜祭ですね。ファイヤーミーティング!今の時代では考えられないですね。校庭でキャンプファイヤー。良い時代でした。 |
恋: | 好きな子には告らずに 告られた子にいいよと言って後悔した |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |