例)大人になった今、あの時先生が叱ってくれた意味がわかりました。 ありがとうございます! |
その他の思い出ページものぞいてみてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白感謝: | 笹野先生から色んな先生、仲良くしてくださって有難う御座いました(*.ˬ.)"2015年のとある卒業生です(*´`*)今は20になり、子供も出来、幸せな日々を送れてます!あの時の先生皆大好きです! |
感謝: | 藤田幸雄君、元気 |
感謝: | 小一の時に転校しました |
感謝: | 大切な友達の卒業アルバムに、メッセージ書けなくて本当にごめんなさい!!言いたいこといっぱいあったのに、本当にごめん!! |
感謝: | 卒業して30年以上が経ちます。当時の英雄(友達) の何人かは、すでに旅立ったようです…いつか、当時の伝説を肴に一杯やりたかったんですが…あの時の物語は宝箱にしまっておきますね。 |
感謝: | 私たちのころに埋めたタイムカプセルが、職員室の前のどこかに埋められているはずなんだけど、どうなったんだろう? |
感謝: | お元気でいらっしゃると良いのですが、瀬田から来られていた松田としこ先生、引っ込み思案な私に自信をつけて下さりありがとう御座いました。 図工の青木先生も可愛がって頂きありがとう御座いました。 |
感謝: | 大川先生、私は、今、茶道部に入部して、楽しい学校生活を送っています。6年1組の皆さん、こんにちは。私は、みんなに、ずっと言い出せなかった事があります。私…実は、障害を持っています。ADHDって言います。だれか、私のコメントに気づいてください… |
感謝: | 校長先生 |
感謝: | 同窓会しょう!みんな元気にしてますか? |
恋: | 2017年の卒業生です。私好きな子がいて今思い出して泣いている。好きなのに好きじゃないって思って去年の1年間を過ごしてた。ごめんね、好きなのに嘘ついて。もう嘘つかないから、泣きたくなったら泣くからね。 |
教室: | 教室に蜂が入ってきて隣の教室に皆で逃げました。 |
体育館: | 体育の授業で些細なことで友達と喧嘩してしまい、体育の陰で泣いていました! |
職員室: | 入る場所が2、 3箇所あったのは覚えてるんだけど、場合によって違う所から入っていた気がする。なんでだろう。 |
文化祭: | 文化祭…やったのか?…全く覚えて無いんだが……じゃ…コメントするなよ…ですね!(≧∀≦) |
理科室: | 山崎先生の塩酸と水酸化ナトリウムによる中和の実験は印象に残っています。 |
教室: | 2015年の当時小6のころ、胸〇陽子っていう先生は、大勢の人に体罰をしたりしていた。ほかの先生も見て見ぬ振り。それと、取り上げた、漫画とかを破いたり、取り上げたペンを未だに返さない、石〇巨裕っていう先生がいた。 |
給食: | ソフトめんとカレーの時が一番嬉しかった |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
運動会: | 最後まで走り抜け!笑顔いっぱい明神っ子! |