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沿革
学校創立
当時の西成郡渡辺村(町村制実施で西浜町)の住民が学校設置の要望を出し、1872年に徳浄寺境内にて西大組第二十二区小学校として開校した。1875年9月に竣工した校舎は、学校の記念誌によると当時日本一と称されたと記されている。学校制度の変遷などを経て、1893年には西成郡栄尋常高等小学校と称した。校名は所在地のかつての地名である渡辺村字栄町による。
西浜町は1895年、大阪市の第一次市域拡張により大阪市(南区、1925年分区で浪速区)に編入された。これに伴い大阪市栄尋常高等小学校と称している。
栄第二(東栄)小学校
児童数の増加により、1922年には栄小学校より分離する形で、南区木津北島町(現在の浪速区浪速東1丁目・もと浪速青少年会館、2014年より栄小学校敷地)に大阪市栄第二尋常小学校(のち東栄(とうえい)国民学校)を設置した。これに伴い従来の栄尋常高等小学校は大阪市栄第一尋常高等小学校へと改称している。
栄第二小学校の所在地付近はもともと西浜町ではなく隣接する木津村であり、大阪市編入後も南区木津北島町と呼ばれていた。
昭和時代初期までの大阪市は学区制を敷いていた。ここでの学区制は「校区・通学区域」の意味とは異なり、市内をいくつかの小学校費用負担区域(学区)に分け、小学校設置・運営に関わる諸費用は大阪市の直営ではなく地域の財産として運営する仕組みのことを指す。現在の浪速区界隈では大阪市編入前の旧町村ごとに学区を設置してそれぞれ学校運営にあたっていた。
木津北島町の児童は、本来は木津学区(旧木津村)の小学校(現在の敷津小学校・大国小学校)へ通学することになっていた。
しかし木津北島町周辺の人口の急増は栄学区(旧西浜町)の膨張による要因が大きいことを背景に、木津学区では同地区在住児童に栄小学校への就学をすすめた。一方で栄学区では、学区外にあたる同地域からの栄小学校への受け入れが困難だった。また地域に貧困層が多く集住していた背景もあり、地域での児童の不就学の状況が目立つようになっていた。
不就学を解消するために1921年に木津北島町を栄学区に編入し、小学校を増設することにした。この編入を象徴するかのように、同年、木津北島町は栄町に改称されている。翌1922年に増設された小学校が栄第二小学校にあたる。
有隣小学校
栄小学校校区周辺では、地域の貧困層児童向けの夜間小学校として、1911年に有隣(ゆうりん)小学校が開校している。当時の難波警察署長が学校設置構想を出し、地域で皮革業を営んでいた新田長次郎ら地域の篤志家が寄付金を出して開校にこぎ着けている。
有隣小学校は私立学校として発足したが、1922年に大阪市に移管された。1927年には有隣勤労学校に改編され、小学校に準じた課程を持つ各種学校として運営されることになった。
有隣小学校の敷地は、今宮駅西側(現在の大阪市立浪速第一保育所および市営住宅付近)にあった。
「新田長次郎#篤志家として」も参照
国民学校
1941年の国民学校令施行により、従来の栄第一尋常高等小学校は栄国民学校に、栄第二尋常小学校は東栄国民学校にそれぞれ改称している。
大阪市では国民学校への改編の際、従来「地域名+創立順の番号」で命名されていた学校についてはこれを廃し、地名などを取り入れた学校名へと一斉に変更する方針をあわせて出している。これに伴い栄・東栄の校名となった。
また有隣勤労学校も1941年に国民学校に改編され、有隣国民学校と称した。有隣国民学校は1944年に南栄(なんえい)国民学校へと改称した。1945年6月には高等科単独へ改編されている。
太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降大阪市など大都市の国民学校児童について学童疎開が実施されることになった。疎開方法は縁故での疎開を原則としたもの、縁故疎開できない児童については学校単位で集団疎開を実施することになった。疎開先の府県は各行政区ごとに割り当てられ、浪速区の国民学校では滋賀県への疎開が決定した。栄国民学校の児童は野洲郡守山町(現在の守山市)へ、また東栄国民学校の児童は滋賀郡坂本村(現在の大津市坂本地区)および雄琴村(現在の大津市雄琴地区)へと疎開している。一方で南栄国民学校については、貧困層の児童が多く疎開費用が支払えない家庭も多くあったこともあり、大阪市内で唯一集団疎開の実施が見送られた。
浪速区は1945年の大阪大空襲で大きな被害を受けた。同年3月13日から翌3月14日の第一次大阪大空襲では、東栄・南栄両校の校舎が全焼した。また地域も大きな被害を受け、終戦後の1946年には東栄・南栄の両校を休校(のち正式に廃校)として栄国民学校へ統合している。
学制改革以降
1947年の学制改革により、大阪市立栄小学校となった。1975年には木津川2丁目に移転している。
木津川2丁目にあった当時の校地は約4万6700平方メートル、建物延べ面積は3万1200平方メートルと、平均的な大阪市立小学校4校強に相当する広さを持つ。廊下の幅は7メートル、劇場のような講堂、広大な体育館、1000人収容の食堂、運動場には200メートルトラックを完備し、日本一の小学校といわれた。
一方で栄小学校は児童数の減少傾向が続き、2000代後半時点では1学年1学級の単学級校となり、児童数も百数十人となった。
学校規模と比較して校地が広すぎるため空き教室が30教室以上になっていることや、学校の施設管理・児童の安全管理の面でも支障が指摘されるなどした。そのため学校規模に見合った敷地で効率的な教育活動をおこなうことなどを目的に、栄小学校を2013年度にもと浪速青少年会館敷地(浪速東1丁目)に縮小移転させる計画が、2010年8月に大阪市教育委員会から発表された。現栄小学校跡地は改修・整備の上で2014年度より、入学者の増加による学校過密化が問題化している大阪市立難波特別支援学校を移転させる予定となっていた。
もと浪速青少年会館は一部を栄小学校敷地予定地にして残りを売却することにしたが、売却予定地での土壌汚染が見つかり、汚染状況の調査のために移転時期が1年遅れ、2014年度よりの移転へと変更された。これに伴い難波特別支援学校の移転も2015年度に変更された
。
年表
1871年(明治4年) - 当時の渡辺村住民が、小学校設置の願いを出す。
1872年(明治5年)7月2日 - 徳浄寺境内にて西大組第二十二区小学校として開校。
1875年(明治8年)9月 - 当時東洋一と言われた第1期校舎完成。建設費と運営費については、地域住民で負担した。
1879年(明治12年) - 栄町以下10か町が西成郡に編入され、西成郡公立栄小学校となる。
1887年(明治20年) - 西成郡栄尋常小学校と改称。
1888年(明治21年) - 栄尋常小学校の中に栄簡易小学校ができる。
1893年(明治25年)4月1日 - 西成郡栄尋常高等小学校と改称。
1897年(明治30年) - 西浜町の大阪市への編入により、大阪市栄尋常高等小学校と改称。
1908年(明治41年) - 第2期校舎が完成し、移転。建設費の7割を校区で負担した。
1911年(明治44年) - 地域の篤志家により、私立有隣小学校(のち南栄国民学校)が開校。
1922年(大正11年) - 大阪市栄第一尋常高等小学校と改称。栄第二尋常小学校(のちの東栄国民学校・廃校)を分離。
1928年(昭和3年) - 第3期校舎が完成し、移転(現:大阪人権博物館)。
1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により、大阪市栄国民学校と改称。
1945年(昭和20年) - 高等科(男子)を無くし、初等科だけとする。同年、東栄国民学校が空襲のため全焼し、大国国民学校に同居する。
1946年(昭和21年) - 戦災により東栄国民学校・南栄国民学校を統合。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革により、大阪市立栄小学校と改称。
1950年(昭和25年)9月 - ジェーン台風が来襲し、最大3500名の罹災者を本校に収容する。
1952年(昭和27年) - 創立80周年記念式典挙行。
1972年(昭和47年) - 創立100周年記念式典挙行し、現在の校歌を制定する。
1975年(昭和50年) - 木津川2丁目3番30号に第4期校舎が完成し、移転。
1979年(昭和54年) - 立葉小学校の通学区域の一部が栄小に編入される。
1995年(平成7年) - 民族学級が開講する。
1996年(平成8年) - パソコンルームが完成する。
1997年(平成9年) - 歴史資料室が完成する。
2000年(平成12年) - 大阪市教育委員会から「総合的な学習の時間」の研究校に指定され、研究発表を実施。
2001年(平成13年) - 歴史学習室(生涯学習ルーム)が完成する。
2004年(平成16年) - 文部科学省から学力向上フロンティアスクール実施校に指定され、研究発表を実施。
2005年(平成17年) - 文部科学省から「伝え合う力を養う調査研究事業」研究校に指定され、研究発表を実施。
2014年(平成26年)1月 - 第5期校舎が、現在地に移転。wikipediaより
例)緑豊かな場所にあり幼少期を過ごすにはとても良いところでした
・都心部にあり交通の便が良く通いやすかった
・海の近くにあり潮風が心地よい環境でした
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例)東京第一小学校の場合
・一小(いちしょう)
・東一(とういち) 等
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