懐かしい学校の記憶を共有するページです。そこにあった物、風景、うわさ話などをぜひ教えてください。
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
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感謝 謝罪 告白
ぼくは転勤族の家庭に育って4年生になる時に神戸の高羽小学校に転校して来たけど、それまでいた学校と違う事がたくさんあって、いろいろびっくりした。これまでは1年生の時の小学校も、2,3年生の時の小学校も、校舎に入ると下駄箱があって上履きに履き替えて上がるのが普通だった。それが神戸の学校では、靴のままで校舎に入るようになっていて、下駄箱というものはなく上履きという物も必要なかった。最初は違和感があったけど、校舎に入る時や出る時に、いちいち履き替える必要がなくなって便利になり、すぐに慣れた。その後高校卒業まで9年間神戸に住んで、中学も高校もそうだったので、すっかり「校舎の入口に下駄箱などという物はない」のが普通に感じられるようになってしまった。(31) ぼくが高羽小学校に転校して来た4年生の時(1981年)、運動場が狭いと言われていた。それが5年生になる時、学校の南の空き地が運動場になって、「南グラウンド」と呼ばれるようになり、広くなって、何となくうれしかった。(31) ぼくは4年生になった時に転校して来て、前の学校は25メートルプールだったのに、ここの学校は20メートルプールということでちょっとびっくりした。級は「7級・とにかく15メートル泳げる」「6級・とにかく20メートル泳げる」「5級・1種目で20メートル泳げる」「4級・2種目で20メートル泳げる」「3級・2種目で40メートル泳げる」「2級・1種目で80メートル泳げる」「1級・2種目で80メートル泳げる」だったと記憶しています。ぼくは前の学校にいた3年生で25メートル泳げるようになったけど、ここに転校して来て1年目の4年生でクロールと背泳ぎの2種目で40メートルを泳ぎ切って、3級が取れた事を今もよく覚えている。(31) ぼくは4年生になった4月に転校して来たので、どうしても前にいた小学校と比べてしまうけど、最初の小学校(1年生)も2番目の小学校(2、3年生)も、給食はおぼんの上に牛乳や食器などを載せて食べていた。それがここの小学校では、おぼんは無く机の上にナプキンを敷いて食べるということで、最初のころは何だか違和感があったけど、そのうち慣れて結局は4、5、6年と小学校後半の3年間をここで過ごしたのでいつの間にか当たり前のようになった。牛乳も、前の小学校だけ三角パック入りだったので、瓶牛乳は前の前の小学校にいた1年生以来だった。普段はパンだったけど、週に一度(火曜日)だけ「米飯給食」といって、ごはんが出た。いつも給食の時間には「お昼の校内放送」があって、その中で「今日の献立」のコーナーがあり、「パン(火曜日だけ、ごはん)、牛乳、(その日のおかず、デザートなど)」が紹介されていた。給食の時間になると、それぞれの班ごとに机をくっつけて各班のメンバー同士で食べていたように記憶している。(31) 押して開ける入口と出口の2つのドアがあって、男女共用だった。中は、中央に仕切りがあって右が男子トイレだった。ぼくは真冬でも半ズボンで通したから、いつもズボンの左裾から指入れてクイって出して「シィィー」ってションベンしてたよ。あの時のいい気持ち、たまらなかったよね!終わったらプルンプルン振って先っぽに付いたションベンの滴を落とす。あれも気持ち良かったなあ。出口のドアが男子トイレ側にあったから、女子がドアの近くで振り向いてぼくの立ちションを見てた事もあったけど、ぼくは平気でションベンしてたよ。(31) 昭和 6年間 お世話になりました 猪熊先生 (29) ぼくが4年生の始めに高羽小学校に転校して来た時、神戸の小学校では表紙に神戸の風景の写真が載った国語帳、算数帳、社会科、理科の記録、連絡帳など独特のノートが使われていて、ちょっとびっくりした。もちろんぼくは、それまでの小学校では違うノートを使っていて、そのようなノートは見たことがなかった。そのためぼくは、しばらくの間、前の学校で使いかけのノートを学年をまたいで使っていて、ほかのみんなとノートが違って何となく違和感があった。それまでのノートを使い終えて新しいノート(神戸ノート)に買い換えてから、ようやく高羽小学校のメンバーに仲間入りした感じだった。(31) 冬休み明けの3学期早々、変な事件が起きたことがあった。小学校の近所に住んでいる小さい子が、おばあちゃんに連れられて小学校の飼育小屋のウサギを見に来て、金網から指を入れていたらウサギに指を8ミリ~1センチくらい噛み切られてしまったのです。その時、全てのクラスの児童は教室で書き初めなどをしていて、グラウンドには先生も児童も誰もいない時に起きた事件だった。次の日の朝、学校に来ると飼育小屋の周りに大勢の児童が集まっていたので何事かと思ったら、その日教室でその事件の話を聞いた。(31) ぼくは4年生になって将棋クラブに入り、5年、6年と3年間ずっと活動した。5年生でクラブ発表会に出場して駒の動かし方を説明する事になり、前の人が玉、飛車、角、金、銀の動き方を説明して、次にぼくが桂馬、香車、歩の動き方と、駒は敵陣に入ると裏返して成って金と同じ動き方になる事、取った相手の駒を持ち駒として好きなところに打つ事ができるという説明をして、次の人に交代することになった。ぼくは先生が書いて下さった台本をズボンのポケットに入れて時間があれば読んで、そのうち内容をほとんど暗記してしまった。発表会の前の練習で、先生の前で台本なしで自分が説明する内容をほとんど間違えずに言えたら、先生に「よく覚えた。かしこい。」とほめられてすごくうれしかった。さらに同じクラスの同じ班の人に「今度、クラブ発表会に出て将棋クラブで駒の動かし方を説明するんだよ。」と話すと、ぼくに「あたしの妹が3年生でね、桂子って言うんよ。それで将棋の駒の、桂馬の桂っていう字なんよ。で、妹が『将棋に自分の名前の馬がおる。桂子の馬や!』って喜んでるんよ。」と言ってくれた女子がいて、ますます気持ちが乗ってしまった。こうして講堂で行われた発表会で、ぼくはステージでマイクを持って大勢の児童の見ている、聞いている前で将棋クラブのメンバーとして桂馬、香車、歩の動き方などを説明し、無事に自分の役目を果たすことができた。先生やクラスメイト、ぼくの説明を聞いてくれた人たちには本当に感謝しているよ!本当にありがとう!(31) ぼくにとって給食は、食べるほうよりも、給食当番のほうにうれしい思い出がある。ぼくは給食当番になった時は、いつも張り切ってやっていた。ぼくは障害があって右手の人差し指、中指、薬指が欠損しているけど、5年生の11月頃、給食当番のおかず係になって1ヶ月ずっと1階の給食室から3階の5年3組の教室までクラス全員のおかずを運んでいた。そして、1人ずつ食器におかずを入れる係を担当していた。担任の先生もいい先生で、「O君は右手に障害があっても、給食当番もきちんとこなして本当によくやっている。」とほめて下さった。そしてクラスみんなの前で「今月の給食当番のおかず係はO君や。O君は右手に障害があるけど、よく頑張っとるんや。今月みんなは、そのO君が食器に入れてくれたおかずを食べとるんや。みんな、O君に感謝しなさい。」と言って下さった事があって、本当にうれしかった。(31) |